隆勝堂百年物語

since1924

 
昭和30年代の八女土橋商店街

昭和30年代の賑やかな八女土橋商店街(出典:柳川・筑後・八女・大川の今昔 出版社:郷土出版)

ふるさと八女の 銘菓をつくる

福岡県の南部に位置する八女市。 ここで長年、町のお菓子屋さんとして 地域の人たちに愛され続ける隆勝堂は、 まもなく創業百周年を迎えます。 大正、昭和、平成、令和と、 八女の人たちへ 新しい食文化を伝えてきた隆勝堂。 楽しく、時には大変な時代を 乗り越えてきた、 創業者・山口長市からはじまる 百年の物語です。

隆勝堂物語①

百年の歴史がはじまる

町の人に愛された菓子職人 創業者・山口長市

 物語の初まりは大正時代のこと。まだ自動車も走っていない田んぼだらけの八女で、隆勝堂の前身となる「山口商店」が誕生しました。和菓子職人であった、現社長・隆一の祖父にあたる、山口長市が妻ツタエとともに創業した店は、手先が器用だった長市が作る上生菓子が評判を呼び、縁起物の鶴亀の生菓子は八女のお祝いごとには欠かせないほどでした。それに加え、人あたりの良い長市は町でも人気者。晩年、八女を制作拠点とした画家の坂本繁二郎や田崎広助などとも交流があったと言われ、風流を好む粋な職人でした。 元来、新し物好きであった長市は、和菓子だけにこだわらず、おかきやあられ、アイスキャンディーなども手がけます。当時、八女の福島八幡宮の脇には、あられの専用工場があり、天気の良い日には屋根にあられが干されていたと言います。

 商売も軌道にのっていた戦前は、住み込みで働く菓子職人たちが40~50人もいたほど。現在の清水町店の裏には大きな工場があり、職人たちが毎日一つひとつ手作りで菓子作りに励んでいました。父の背中を見て育ち、ものごころついた頃から菓子職人の道に進むことを決めていた長男の隆は、高校卒業後、当時、福岡の町でも名店と言われた生田菓子舗へ修行に出ます。現在の映画館・中洲大洋がある場所にあった人気店で、著名な作家や画家が集うサロンとしても知られた店でした。ここで、菓子づくりの基礎を学び腕を磨いていったのです。  
 

今も愛され続ける八女の銘菓「蹴洞」誕生 

 時代は大正から昭和になり、山口商店は長男の隆と次男の勝の字を合わせた『隆勝堂』に屋号を改め、菓子作りを続けていました。しかし、戦争という悲劇が日本を巻き込んでいきます。平和に菓子作りを営んでいた山口家の長男・隆にも出兵命令が下り、戦地へ向かうことに。日本全体が食糧難となりましたが、隆勝堂も数少ない物資の中で菓子店を続けていきました。空襲におびえながらも、強い心で人々が賢明に生き延びたそんな時代でした。

昭和20年、終戦をむかえ、隆はシベリアに抑留されたのち八女に帰還。隆が無事に戻ったこともあり、昭和24年、社長に隆、専務に勝が就任し、合名会社として再出発することとなりました。

 それからの隆勝堂は多いに活気づいていきます。戦前、生田菓子舗で身につけた技術と知識で新たな菓子作りを始めた隆は、上海で菓子職人をしていた人物を職人として雇い入れます。現地では菓子づくりに油やバターを使うと聞き、当時まだ貴重品であったバターを菓子作りに取り入れます。この頃、父・長市とともに試行錯誤を繰り返し誕生させたのが隆勝堂の看板商品『蹴洞』です。餡を包む生地にピーナッツバターをたっぷり加えてサクサクの食感に仕上げ、中の餡も卵の黄身だけを贅沢に使用したまろやかな黄身餡に。当時のまんじゅうにはない、ちょっぴりハイカラな新しいお菓子の誕生でした。名前は、八女の名勝・日向神峡にある神様の伝説が残る「蹴洞岩」から名付けることに。八女の人々に長く愛される地元の銘菓となるように、との思いを込めたものでした。

蹴洞岩

日向神峡にある蹴洞岩

   

まんじゅうをほおばりながら 相撲観戦に町が沸いた

 戦後、復興が急速に進み日本は高度経済成長期真っ盛り。隆勝堂も商売を広げ、1階を菓子屋、2階ではレストランを経営。料理人とともに腕を振るったのが、長市の妻ツタエ。働き者の彼女が作るちゃんぽんは絶品だったと言います。同時に、当時日本中が夢中になった横綱大鵬にあやかり、土橋で『大鵬まんじゅう』という食堂を営みます。 自慢の餡たっぷりの回転焼きを『大鵬まんじゅう』、対してライバルであった柏戸の名をつけた白餡の蒸しまんじゅう『柏戸まんじゅう』を販売しました。

 そして、当時まだテレビがあまり普及していない頃、八女でも早々にテレビを導入。お店にはまんじゅうと相撲中継見たさのお客さんで大賑わいだったそうです。こうした二つの店は八女の人々に活気を与える存在でもありました。

 隆は菓子職人としてもさることながら、人助けにも余念がなく、本業の菓子作りそっちのけで手を差し伸べることもしばしば。そんな隆のふるまいから、多くの職人を抱える大所帯の隆勝堂も決して羽振りの良いものではありませんでしたが、その人柄は多くの人に愛されていたと言います。

             

店先に立つ隆の妻・秋子

2Fのレストランの画廊「蹴洞」

     

隆勝堂物語②

新たな食文化を伝える

八女で初めての 生クリームケーキを販売

時は昭和40年代に入ると八女の町も活気に溢れ、商店街も多くの人で賑わっていました。これからの時代、菓子屋もどんどん新しい物を作っていかなければと、隆は八女で初めて生クリームを使ったケーキを作ります。まだ、生クリームは大変貴重なもので、人々も雑誌やテレビで見たことがある程度のあこがれの食べ物。まだまだ交通も発達していなかった頃ですから、実際に生クリームのケーキを食べるには、かなりの時間をかけて福岡の街へ繰り出さねばなりません。 そんな中、八女の人たちに新しい食文化を知って欲しいという思いから、仕入れ自体難しい生クリームを取り寄せ、ショートケーキを作りました。まだまだ高級な生クリームのショートケーキでしたが、瞬く間に話題に。清水町の店前の通りには、両側に車が連なりケーキを求めてたくさんの人たちが集まりました。さらに、神戸のお店で腕を磨いた洋菓子職人も入り、新しいケーキが次々に誕生していきました。 この頃から、今まで餡を手包し小さな窯で焼いていたまんじゅうも機械化が進み、一度にたくさんの商品を作れるようになり、蹴洞に続く新たな名物菓子の開発にも力を入れていきます。    

清水店の店舗もケーキなどが並び一気に華やかになっていった。

一流のものにふれ 新しい感性を磨く

 昭和41年、創業者・山口長市が逝去。その時、三代目となる隆の長男・隆一は高校生でした。幼い頃から、長市の菓子づくりを目の当たりにし、その手捌きに憧れていた隆一は「俺が隆勝堂を継ぐ」と決意。大学を卒業後は、本物に触れ感性を磨くため、東京、フランス、福岡と複数の菓子店に修行へ。

 最初にお世話になったのは、東京・五反田にある小さな洋菓子店でした。朝の7時から夜の10時まで洋菓子づくりの基本を学んでいきました。当時、その店で人気だったのが「ショコラバナーヌ」。バナナとクリームをパイ生地で包み、チョコクリームで包んだケーキは、初めて口にした時のおいしさとしゃれたデザインに感動したと言います。あの時の味を隆勝堂でも再現し、ショコラバナーヌは今も人気の商品へと成長しました。

 その後、表参道にあった『ドンク青山』へ。本場・フランスから来たパン職人が焼くフランスパンやクロワッサンを求めて、連日行列ができるほど。トリコロールにパリの地図が入ったドンクの袋を抱え、青山通りを歩くのがおしゃれと言われていました。隆一はここでパティシエとして菓子づくりを学びます。休日には仲間たちと食材を持ち寄り、寮の古びたキッチンでフレンチを作ったりしながら互いに腕を磨きあうなど、一流のものに触れたドンクでの期間は毎日が刺激的でした。

 この頃、フランス語の勉強にも力を入れ、菓子の本場・フランスへ渡ります。日本と違い、フランスはバター王国。菓子だけでなく、料理にもふんだんにバターを使います。バターに生クリーム、ミルクなど、上質な素材を活かした菓子づくりに感銘を受け帰国。この経験はその後の隆勝堂での商品づくりに大きな影響を与えるものとなりました。

隆一・フランスAux Derisでの修行時代

 
百年物語フランス修行

ウインドウに並ぶ菓子はどれも美しく、見るもの触れるもの全てが新鮮だったといいます。

     

日本に戻った隆一は、福岡のロイヤルに入店。ここでは、レストランの接客も経験し、製造から販売まで小売業全般を学びました。昭和50年、隆一は八女に戻り、父・隆とともに隆勝堂を切り盛りしていきます。昭和52年、隆勝堂フーズ(株)を設立し、隆が代表取締役に就任。この頃は、現代のように手軽に情報が入る時代ではなくお客様の口コミが大半。東京・フランスで磨いた感性で、八女では珍しいケーキやお菓子を次々に送り出した結果、地域の人々の間で「おいしい!」と話題に。「誕生日や記念日には隆勝堂のケーキ」が定番となっていきました。

 やがて清水店では手狭になり、駐車場を完備した筑後店をオープン。地域の人たちに「ちょっとしゃれてるね」と話題になるような店づくりと、お客様がゆっくりと買い物でき、和菓子と洋菓子の両方が揃う店として、たちまち人気の店となりました。

 その後は、大木町や黒木町、久留米と福岡県南部を中心に店舗を広げ、平成17年には念願のパン事業へと展開していきます。

 

平成17年、本店を現在の蒲原に移転。敷地内にサンタカフェベーカリーもオープン。

 

隆勝堂物語③

隆勝堂の挑戦は続く

家族で訪れる郊外型のパン屋

 それまで、パン屋といえば町の小さな店がほとんどだった時代、駐車場を完備した郊外型のパン屋「サンタカフェベーカリー」をオープンします。店舗の名は、その美しさと穏やかな雰囲気に魅了されたというアメリカのリゾート地・サンタフェからきたもの。お店を訪れるお客様が、ゆっくりと買い物ができるお店にしたいという思いを込めました。飾り気のない素朴でふんわりとしたパンは子供から大人まで幅広い方々に受け入れられ、週末ともなると家族連れでいっぱいに。

 その後、久留米地区にベーカリー店舗を続々とオープンし、地域にとっても欠かせないお店へと成長していきました。

 

隆勝堂イズムは次の時代へ

 大正時代にはじまった隆勝堂のお菓子づくり。時代の移り変わりとともに、試行錯誤を重ね商品もお店も形を変えていきました。ただ変わらないのは、隆勝堂に代々続く新しい物好きな好奇心とおいしい物好きの感性でした。生まれ育った八女の地に、新しい食文化を伝えていきたい、地域の皆さんに愛される店を作りたいという思いは、脈々と受け継がれ今日に至ります。

 今では、店舗以外にも百貨店や各地での催事、オンラインショップなど、さまざまな販売チャネルを通じ、より多くのお客様に隆勝堂の商品にふれていただけるようになりました。これも、日頃よりご愛顧いただいているお客様、そして共に隆勝堂を支えてくれるスタッフのおかげと感謝しております。

 これから百年、百五十年と変わらず愛される店であるために、お客様一人ひとりに寄り添い、おいしい商品をお届けしていけるよう、私たち隆勝堂はこれからも挑戦し続けていきます。

 
生田菓子舗での修行時代

生田菓子舗での修行時代の1枚。

   
百円物語職人

白い帽子に黒い長靴姿の菓子職人たち。

     
清水店の工場

清水店の裏にあった大きな工場。

   
オープン時の広川店

近隣にはないおしゃれなデザインの広川店。